2017年12月16日

2017 クヌギ伐採

加茂でクヌギ6本を伐採して小分け。
椎茸の原木用に乾燥させる。

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約1,000コマ分にはなるだろう。
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2015年03月06日

椎茸コマ打ち

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16本で1,000コマ。
梅雨明けまで伏せてから本組みとなる。
posted by 加茂のヤクザ@管理人 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 加茂のこと

2015年01月21日

賀茂神社 高知県

高知県神社庁に問い合わせたところ県内の賀茂神社は7社と回答があった。
ただしこれは神社本庁に登録のあるデータなので100%とは言い難いらしい。
1/18のブログで4社把握とあるので残り3社について教えていただいた。
土佐山田町(現香美市)・須崎市・窪川町(現四万十町)である。
土佐山田町に関しては昨年入手した角川日本地名大全(S61)で調べると
旧片地村の南部、物部川左岸に賀茂大明神とあるのでここだろう。
加茂という地名もあるので間違いはないだろう。
須崎市は多ノ郷以外に上分にあるが地名大全では小字でも加茂はない。
窪川は七里の北部にあるがこちらも小字は見当たらない。

県内の地名としての加茂はやはり旧加茂村を入れて3カ所の可能性が高い。
ただ北川村に関しては地名大全で加茂氏由来の地とあるので
そうなると加茂氏祖神とされる賀茂神社が存在する可能性も高いのである。
posted by 加茂のヤクザ@管理人 at 15:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 加茂のこと

2015年01月18日

賀茂神社

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加茂の由来になった可能性が高い賀茂神社。

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ざっと調べたところ高知県内には他に3カ所賀茂神社が祀られている。
須崎市多ノ郷・いの町成山・黒潮町入野である。
多ノ郷は加茂という地名があったかあるいはあるのかは不明。
成山は近くに加茂山という地名がある。
入野は元々加茂屋敷と呼ばれる場所にあったのが八幡宮と合祀され遷座したらしい。
他に北川村に加茂地区があるが賀茂神社があるかどうかは不明。
京都の賀茂神社に電話で確認したところ全国に300少々の賀茂神社があり
全国賀茂社連合という親睦団体も活動しているが
任意なので必ずしもすべての賀茂神社が参加しているわけではないとのこと。

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本殿
posted by 加茂のヤクザ@管理人 at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 加茂のこと

2015年01月15日

加茂地区の歴史

 加茂という地名は高知県内だけでなく京都・広島など全国各地にある。加茂氏一族の支配した土地であり、賀茂神社の祭神は加茂氏の祖神という説もあるが肝心の加茂氏一族に関する記録伝承がない。京都賀茂神社の分霊を勧請して氏神として祭祀した際に生まれた地名だと思われているが、誰が何時勧請したのかは不明。
 大化の改新646(大化2)年に出された詔として当時の土佐国の大野・仲村・桑原・次田・吾川・高岡・三井・海部の八郷を吾川郡とする律令制度ができた。その後高岡・三井・海部が高岡郡となった。
 平安時代中期の荘園開拓が行われ始めた頃に日下郷開拓として別府氏の名が登場する。この別府氏は安芸郡室津(現在の室戸市室津)に拠点を持っていた土佐権守惟宗朝臣別府康弘の次男権九郎経基のことである。経基は長男康高が安芸郡を中心とした土佐東部の支配をするのに対抗して土佐西部の支配を目指した。当初は923(延長元)年に越知を本拠としている。経基は荘園拡大の一方で大峯修験道の行者として修行し、大和から大峯蔵王権現を歓請して三獄山(横倉山)に祀っていた。順調に支配を強めていた経基だったが、939(天慶2)年に藤原純友が平将門と図った承平天慶の乱にて純友の誘いに乗っていたことがばれてしまい捕り押さえの命が出るとそのまま行方をくらましてしまった。この頃に越知を狙う勢力としては津野山郷(現在の津野町周辺)を制した津野氏と吾川箭野氏がおり、跡継ぎの経基長男の経氏はいったん日下郷開拓を目指して日下に拠点を移す。日下郷は現在の日高村から加茂周辺になり別府氏は2代目となる経氏から10代目となる高盛まで日下に居を構えたが、1099(康和元)年に日下を引き払って再び越知に戻った。この頃既に中央では平家が実権を握り、藤原定実が土佐守として土佐を平定しており争いはなくなっていたものと思われる。
 12世紀後半に平重盛は家臣の近藤家綱と伊勢俊遠を守護職として土佐に派遣した。家綱は土佐市蓮池付近を本拠にして蓮池権守家綱、俊遠は宿毛市平田付近を本拠にして平田俊遠とそれぞれ称した。別府氏は家綱の家臣として越知から日下周辺を平定していた。この頃土佐国介良荘(現在の高知市介良)に源義朝五男希義が流罪になっていたが、1180(治承4)年に同母の兄頼朝の挙兵を受けて謀反の疑いを平家からかけられ追討令が出された。希義は夜須の豪族夜須行宗を頼ろうとするが、察知した蓮池家綱・平田俊遠の両名が討ち取った。当然ながら平家滅亡後に頼朝の怒りを買った両名は討ち取られ、滅亡した(家綱の墓は今も討ち死にした越知町遊行寺にある)。関東にいた家綱の実兄坂東太郎経繁は弟の旧臣別府親康を頼って土佐まで落ち延びた。別府親康暗殺を企てた矢野和泉守を黒岩城(現佐川町黒岩)で討ち、故郷である上野国中野郷片岡をとって片岡氏と名乗った。他にも別府氏を頼って落ち延びた平家家臣はおり、小田原隆盛が宮地城主(現越知町宮地)、東乗実が加茂荘司になったと言われている。加茂という地名が登場するのはここであり、加茂本村にある賀茂神社近くには東徳実という地名があって古墳もあるが正確な関連は不明である。別府氏は緩やかに衰退したようであるが片岡氏は戦国時代には越知町片岡に法巌寺城を築き仁淀川中流周辺の支配力を強め、土佐七雄と並ぶ勢力を誇ったが早々に長宗我部氏に協力して臣下となっていたようでこの地域での戦乱はほぼ皆無だったようである。
 江戸時代になって藩主山内氏の筆頭家老の深尾氏が佐川に居を構えてからは城下町と佐川を結ぶ高知往還の経由地として加茂村の名前が出てくる。当時の高知往還は仁淀川を波川の渡しで渡り、いったん西進したのち(おそらく現在のいの町日高村の境付近)に仁淀川べりに出てから江尻から日下川沿いに通るルートだったらしい。現在の国道33号線とは若干異なるし、霧生関も峠道はもっと北寄りから登っていたようである。
 明治時代後期には郡道(現在の県道297号線)が計画され、当初の計画では南回りで加茂長竹から山沿いに北側を西進して下山経由で西佐川駅に至る予定であった。ところがこれでは加茂村役場や学校といった主要地域が外れるので岩目地・本村地区が北回りを主張して村を二分する争いになった。結局北回りで決着したものの、本村と長竹間では長い間しこりを残すことになった。本村地区のJR土佐加茂駅前から南にまっすぐ長竹に伸びる道路ができたのは郡道開通から30年近く経ってからである。 

(日高村史・佐川町史・高知県史より)
posted by 加茂のヤクザ@管理人 at 14:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 加茂のこと